教科書が教えない昭和史

文藝春秋四月号に34頁にわたる掲題の討論が掲載されているが、戦後ずっと旧日本軍糾弾の主流派だった半藤一利秦郁彦(79・77歳)に対し、戦後生まれで予断なく近現代史を勉強して来た中堅・若手の北村稔・別宮暖朗(61・61歳)・福田和也・林思雲(49・46歳)が論破するやりとりが多く、興味深い。
日清戦争 半藤・秦が「戦争を仕掛けたのは日本だ」との立場に対し、別宮は「朝鮮に日清共に駐留していたが、日清間で結んだ天津条約に違反して清が先に軍を動かした」と反論し、林は「当時中国は英仏にアロー戦争で敗れて北京を占領され、清仏戦争に負けてベトナムを放棄している。日本について言えば、漢民族にとって清はあくまで満州族の国でむしろ打倒すべき対象だったし、日本は漢民族の革命を唯一支援する国だった、だからこそ漢民族の留学生が大勢日本に渡った」と老人二人を押し込む。
日露戦争 秦は「開戦に至る過程で軍主戦派はデータの偽造をした」とか、つまらぬ事を問題視しているが、半藤はさすがに矛を収めて「日露戦争については、これは間違いなく日本の自衛戦争だ」と認めているし、別宮は「日露戦争はロシアの侵略が原因」は当時の国際常識と言う。福田は、にも拘わらず、朝日新聞は「日本は朝鮮の独占的支配を狙い対露戦争を準備した」とし、アジアに対する侵略戦争の一つと強弁している、と強く批判している。林は「日露戦争の主戦場は満州であったにも拘わらず、特殊な地域だった為か、今の中国の教科書では殆ど触れられていない」と大変興味深い発言をしている。
満州事変 日露戦争南満州鉄道遼東半島の租借権(1923年迄)を日本は得たが、満蒙は日本の生命線と考えた陸軍は、西洋諸国並み(99年間)の満鉄権利延長を求める。満州清朝の土地だから、国民党を助けてくれたら満州は日本に渡す、などと孫文はしばしば語ったりしたようだが、関東軍の謀略により満州事変が始まった事には全員異論がないようだ。なぜ石原莞爾満州事変というある種のクーデターを考えたかについて、その源にあったのは第一次世界大戦の衝撃であり、どうやったらこのような総力戦の時代に対応した国家体制を構築出来るかが、陸軍の深刻な問題だったし、石原案はそれに対する具体策として、関東軍だけでなく軍部が一致して取り組んだのだったと福田は述べる。満州国建国後リットン調査団が、日本にとり十分のめる解決案を勧告したが、日本は拒否し国際連盟脱退まで突っ走ってしまった。新聞による世論の扇動もひどかったし、外務省の責任も重いと双方一致している。
日中戦争 これまでは日中戦争と言えば「日本が一方的に侵略し、中国が侵略された戦争」(半藤・秦)だったが、北村は「日本は全面戦争を望まなかったのに、中国がドイツ軍事顧問団の力を借り全面戦争に日本を引き込む計画を練り実行した」、林は「1937.8.13に発生した第二次上海事変 (蒋介石が75万人の中国軍に5千人の日本海軍特別陸戦隊への総攻撃を命じた) が日中戦争開始の発端、中国側が仕掛けた戦争であったのは事実」、別宮は「1937.7.7の盧溝橋事件は偶発的衝突に過ぎず、すぐに停戦合意が成立した、全面戦争は第二次上海事変以降だ」と三人とも従来説に異論を述べる。この日中戦争については、老若両派の論戦が続き双方互角と言ってよかろうが、若手の説に私は真実味を感じる。
東京裁判 北村は「満州事変・日中戦争・太平洋戦争が一連の侵略戦争だとして、戦争犯罪として裁かれたが、太平洋戦争の開始の時点でさえ、侵略 (aggressive warの誤訳、先制攻撃が適訳)戦争が戦争犯罪に当たるという認識は、世界の指導者達の誰も持っていなかった」と述べ、秦でさえ「国際的には中国を除き、もはや誰も日本を侵略国家だと非難していないのに」と日本国内での議論を奇妙な事と断じている。林も「中国でも日本の侵略が改めて問題にされるようになったのは90年代に入ってから」と言う。東京裁判は「仕掛けられた戦争犯罪の罠」で今やその不当性に決着はついていると言えそうだ。
 終戦GHQの日本弱体化政策(平和憲法東京裁判)の呪縛が解けずに60年以上が経ったが、かなり情報開示と研究が進んで呪縛が解け始めている。一日も早く歴史教科書が書き直されるよう期待したい。