真言宗豊山派大本山・護国寺             

東京都文京区にある真言宗護国寺に私の父の墓があり、墓石は「美坂弘三の墓」となっていて、母が1958年に42歳で他界した時に父が作ったのだが、実は父の兄・翁助が「美坂家の墓」を以前から保有しており、そこが少々広かったので、その脇に離れのように作らせてもらったいきさつがある。父は’86年に82歳で亡くなったので、昨年母( 真月院貞鏡妙静大姉)の50回忌、父(明照院寶栄弘覚居士)の27回忌を一括して行った。そんなわけで高野山めぐりの後、真言宗護国寺について調べてみた。
 空海が804年の第16次遣唐使船の第一船で船出し、目的地よりかなり南の福州に着いたが、そこから2000kmの長安(現在の西安)に行き梵語サンスクリット語を習得しながら、インド以来の密教の正統を伝える第一人者・恵果和尚から教えを受け、儀礼・法具・経典迄あます所なく受け継ぎ、460巻と言う膨大な経典などを収集して806年33歳の秋に無事帰国した。しばらく筑紫の観世音寺で持ち帰った経典などの整理をしていたが、809年京都の高尾山寺に入住し、ここで真言密教を広め国家安泰の祈祷を修し、歴代天皇の厚い帰依のもと真言宗の存在を広く仏教界に認めさせた。一宗の根本道場として京都の東寺を賜り、その後816年43歳の時嵯峨天皇から賜った高野山に入住した。空海は当時世界第一の文化国家だった唐で様々な文献や新知識を入手し我国に持ち込んだのだが、中でも土木工事・医療技術など人々の生活向上に役立てたものが多かった。十住心論・文鏡秘府論・三教指帰(サンゴウシイキ)を始め著書も多く、中国語や梵語など語学者としての造詣も深く、書道では三筆の一人。更に日本最初の庶民教育機関綜芸種智院(シュゲイシュチイン)」を開いた。835年62歳高野山で入定(死去)したが、その87年後921年に醍醐天皇から弘法大師諡号を賜った。
 死に際し空海は住持していた東寺・高野山金剛峯寺始め多くの寺院を弟子達に割り振り、それぞれ国家公認の僧侶養成所として認可されたのだが、一方それぞれの寺院は独立した傾向を持つようになって行った。高野山について言えば、落雷による伽藍・諸堂の焼失とか国司による押妨により、無人になってしまう迄衰微したが、平安時代中期には藤原道長が山上の寺院に参詣した事などから復興が進み、皇族・公家の参詣が盛んになり、経済的支援もあって財政は安定した。真言宗の教義そのものは空海により完成されていたので大きな変化は無かったものの、11世紀末興教大師によって新しい力が吹き込まれた際、これに反発する勢力もあり、大師は高野山金剛峯寺の座主を辞し、根来寺に隠棲した。鎌倉時代になり頼瑜(ライユ)僧正により新義真言宗が成立し根来寺を中心に栄えたが、1585年に豊臣秀吉の焼き討ちで灰燼に帰し、専誉僧正始め多くの僧侶が根来寺を離れた。その後豊臣秀長に招かれたこの専誉僧正は、奈良の長谷寺豊山派(長谷寺山号に由来)を興す。以降ここは真言宗豊山派の総本山になる。江戸時代五代将軍綱吉の生母の桂昌院護国寺を建立しここは豊山派の江戸の拠点となった。これが現在の真言宗豊山派大本山護国寺である。
 大阪住まいが長くめったに墓参りもせず、弟夫婦にまかせっきりであるが、親戚も含めて時折の法事・墓参で護国寺を訪ね、往時を偲ぶのは心落ち着く一時である。