51年前の剱岳登山行                        

 映画「剱岳 点の記」を見て、大学3年の夏休みにT君と二人で行った「剱岳登山行」が大変懐かしく、出来るだけ克明にその時の行程をトレースしてみようと思い立った。山行きの立案者はT君で、私は誘われてついて行っただけであり、あのリュックは重かった、あの登りはきつかった、あの雪渓の下りはクレパスもあって危なかった、といった記憶しか残っていない。そこで全面的に彼に協力を求めたところ、早速に探し物をしてくれた。さすがに計画書とか日記のようなものは彼の所にも無かったようだが、貴重なスケッチブックを探し出してくれて、要所々々の、ちょっとした書付の入ったデッサンを頂いた。これを基にして以下のようにまとめて見た。
 まず日程だが、1958年7月14日東京発夜行で富山へ、15日朝富山地鉄立山駅へ、ケーブルカーで美女平、バスで弘法へ。ここから、米軍放出のテント・三泊四日の食料などを分けて持ち、一人約25kgの大型リュックを背負って行動開始となる。称名川をはさんで北側の大日山系に移るべく、八郎坂を下り川を渡って今度は急坂を登る。大日山系を経由して剱岳登頂、長次郎沢雪渓・剣沢雪渓を延々と下って池の平へ。そこから阿曾原・欅平宇奈月経由富山に出て、18日の夜行に乗り19日朝帰京。これが二人でトレースしほぼ一致した基本工程なのだが、今誰に聞いても、「驚くべき強行軍」と半信半疑の顔をされる。そこでこの工程の可能性を検討してみる。
 第一日目、弘法までは交通機関利用(富山駅から弘法迄の正味所要時間は一時間半)なので順調に行き、10:00頃には歩き始めたと考えられる。称名川迄の下りが標高差500m、そこから大日平山荘(標高1760m)迄の登りが約800m、大日岳山系の尾根まで上がる計画だったがそれを断念して、ここでテント泊。第二日目、6時にスタートして大日小屋(2440m)迄急登し、そこで朝食、9時。中大日岳、奥大日岳(2606m)、新室道乗越、迄行ってテント泊。第三日目、6時スタートで別山乗越、剱御前(2777m)、一服剱(2618m)、前剱(2813m)、を経て剱岳山頂(2998m)に立つ、正午。午後は長次郎谷の雪渓を下り、剣沢雪渓に合流した後、真砂沢ロッジを経て二股に出、三の窓雪渓を左手に見ながら池の平小屋に達しテント泊。この第三日が問題で、登山ガイドブックのコースタイムを足し算すると、新室道乗越から剱山頂迄は6時間なのでこれはぴったり、午後の下りも全体で6時間は掛かりそうなのだ。合わせて12時間。我ながら驚異的な走破!とびっくりする。最近の私の実力は休憩も入れてガイドブックの標準タイムの5割増しなのだが、51年前21歳の実力は十分標準タイム以下であったのだろう。その証拠はT君に撮ってもらった右の、大日岳近くの雪上での写真であり、25kgのリュックが如何にも軽く見えるではないか。