青嵐会という物語     

「血の政治」という書名の新刊(新潮新書)を著者・河内孝氏からご恵贈に預かった。40年も前に脚光を浴びた政治集団「青嵐会」が目指したものは何かという物語なのだが、そのテーマの一つが、極めて今日的な、「改憲と核」であり、これを中心に著者の思いの骨格を以下にまとめる。
(1)55年体制とは、左右両社会党の躍進と統一で、政権保持に危機感を強めた両保守党、すなわち、軽武装・経済復興優先の自由党(吉田)と自主憲法制定・再軍備民主党(鳩山・岸)の、水と油程も異なる政治路線に目をつぶった合併だった(鳩山総裁・岸幹事長)。その政治綱領には「憲法の自主改正・自衛軍備の整備・外国軍隊の撤退への準備」があったし、1957年首相に就任した岸は独立回復路線を目指すが、戦前への逆コースを危惧する国民的盛り上がりで挫折する(`60安保闘争)。この反政府運動に強い危機感を持って政治の世界に飛び込むのが、後の青嵐会幹部となる中尾栄一浜田幸一中山正暉たちだった。
(2)一方、`60年代の高度成長時代のみならず、戦後一貫して子弟を都会に奪われ続けた農漁村の怨念は大きく、経済成長の果実を、取り残された社会集団に政治的に配分する役割も、政治的安定を達成するのに必要で、この先頭に立ったのも農漁村出身の多い、後の青嵐会議員だった。高度成長期には米価アップも毎年続いたが、都市の反乱・コメの豊作などで、`68には米価引き上げを最小限に抑えるのが至上命令となった。吉田系池田・佐藤の官僚政治が続いた後、`72に田中角栄が首相となったが、年末の総選挙で自民敗北、共産党躍進。このような背景で`73に青嵐会が発足した。
(3)代表世話人中川一郎(中川昭一の父)、世話人渡辺美智雄(渡辺喜美の父)、座長・中尾栄一、幹事長・石原慎太郎、事務局長・浜田幸一を幹部とする約30人。翌`74の自民党大会で、中尾座長が田中首相の政治姿勢(日中国交正常化など)を批判、武道館で二万人を集めての青嵐会民集会で、石原幹事長が倒閣を宣言。同年7月の参院選で自民が負け、与野党議席伯仲に。田中首相辞任し、年末に三木内閣成立。`76年末三木首相退陣し、福田内閣へ。`78年末大平内閣へ。福田内閣で渡辺厚生相・石原環境庁長官・中川農相が実現したりはしたが、`79には渡辺・中川の確執が始まり、青嵐会は解散となった。
(4)さて元へ戻って55年体制の水と油の件だが、吉田派(軽武装・経済優先)、岸派(戦後体制の変革)とここでは仕分けよう。吉田派の政策が吉田ドクトリンとしてかつ保守本流として、一般には高く評価されて来たのだが、吉田自身にはそれは「当面の政策」であったのであり、`64の時点で既に「国防問題について深く反省している、独立大国になったからには軍備を持つ事は大切」と述べている、と著者は記す。にも拘らず自民党歴代政権が「占領下の当面の政策」を墨守した結果、日本は今、二つの自縄自縛状態に陥っていると警鐘を鳴らす。一つは「生活の豊かさ[福祉価値]と国家への誇りと奉仕[名誉価値]のバランスに於いて、「当面の政策」であった福祉価値のみを追い続け、それがやがて脱線した」と言うべき「精神の均衡崩れ」であり、もう一つは「憲法改正という国家の基本問題を、小手先の解釈や国会答弁で糊塗して来た」と言うべき「欺瞞の堆積」だ。欺瞞が飽和状態になった時、政治不信も極まると。
(5)青嵐会は、道半ばで終わってしまったが、少なくとも、この二点に正面から向き合ったと。そして著者は「集団的自衛権問題」と「核の持ち込み問題」を事例として挙げ、元駐仏大使小倉氏の言「日本はこれらにつき、自己欺瞞を繰り返して来なかったと言えるか。それを長期に亘って行う事は自己の破滅である」を引いている。今日の状況では、自民党民主党も1955年の保守合同以前に戻って、政界の総組み換えを行う方が自然であると、そしてその過程で、自民党の「主流」と「傍流」がどのように分解して、どう入れ替って行くか見ものであると著者は言っている。俗に言うガラガラポンで私も賛成だ。