思い起こしたい「幻の映画」

先の大戦終了間際に旧ソ連軍は不当にも、突然日ソ中立条約を破棄して南樺太に攻め込み、侵略行動を続けたのだが、電話交換嬢9人は、非常時の電話通信の重要性に鑑み最後迄職場に留まり、青酸カリ服毒自決した話は、言われれば「そんな事があったな」と微かに記憶している程度である。実は、1963年に「氷雪の門と九人の乙女の碑」(写真)が稚内公園に建設された事、1972年に金子俊男著「樺太1945年夏」が刊行され、1974年に「樺太1945年夏 氷雪の門」の題名で映画化されていた事、公開直前にソ連からの横やりで、大手配給会社による公開が中止され、以後約35年間「幻の映画」になっていた事、今年8月9日、これが900人の観客を前に九段会館で上映された事、等を最近初めて知った。
 映画のあらすじは以下のようである。『1945年夏、樺太西海岸・真岡町。太平洋戦争は既に終末を迎えようとし、報道機関は刻々迫る終焉を報じていたが、戦禍を浴びない樺太は、緊張の中にも平和な日々が続いていた。8月6日、広島に原爆が投下された数日後、ソ連は突如参戦し、日本への進撃を開始した。怒涛の如く戦車を先頭に南下するソ連軍は、次々と町を占領し、戦禍に追われた罹災者達は、長蛇の列をなして真岡の町を目指した。8月15日、突然の終戦の報を信じられず、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出されたものの、真岡郵便局の交換嬢達は決死隊の編成に参加し、職務を遂行しようと互いに誓った。ソ連の侵攻は激しさを加え、8月20日、突如、真岡の沿岸に現れたソ連艦隊の艦砲射撃は激しく、続いて上陸を開始し、町は紅蓮の炎と銃の乱射によって様相を変えた。交換嬢達は職場を死守したが、じりじり迫るソ連兵の群、ただ一本の電話回線からは、職場を捨てるようにとの局長の声が聞こえる。女性達は青酸カリを出し、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」を残して、逝った』
 残念ながら私は未だ観る機会がないが、西尾幹二氏が試写会で観た感想を以下のように書いている。「この映画が訴えているのは、戦争の悲惨さ一般などでは決してなく、ソ連軍の野蛮と卑劣と非道と極悪そのものが描かれていて、遠慮会釈がない。武装放棄している駐屯日本部隊は、白旗を掲げて代表が何人も出掛けて行くが、丸腰の使者にも拘らずソ連側はあっと言う間に銃殺してしまう。無防備の真岡と言う小さな町に砲火を浴びせて次々焼き払い、逃げ惑う婦女子を銃で撃ち、したい放題の蹂躙を重ねる」。そういう事でソ連から横やりがあったのだろうが、モスクワ放送が「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対し非友好的」と強く非難し、ソ連政府から「この映画は日ソ関係の将来に役立たない」と通告を受け、封切10日前に東宝が公開を降りたそうだ。この映画の助監督(当時27歳)だった新城卓氏は、最近語っているのだが、「ソ連軍とは言え、全部囚人部隊。凄まじい虐殺、レイプ、殺人で大混乱を呈したのは真実。映画ではかなり手加減したのだが、日の目を見なかった」そうだ。フィルムもかなり劣化したが、何とか再生に漕ぎ着けたそうだ。この短文の題の裏にある「何故35年も幻のままなのか」を今後筆者は問い糾したい。要は気高い先人に比し、現代人は腰ぬけばかり、と言う事なのだが。