ポーランド孤児(敦賀その2)

敦賀三山の一つ野坂岳山頂から北方を望めば、コンパクトな平野部と静かな市街地、その先に敦賀湾が見え、それを他の三方の山岳が取り囲んでいる事がよく分かる。事前の調べでは、敦賀は1882年日本海側で最初に鉄道が開通(敦賀―長浜)し、1899年に開港指定されて国際港湾都市として発展して来、1937年に市制が施行され、現在は人口7万弱である。順調に下山したので、少々時間があり、いくつかの観光スポットから、今回は敦賀港金ヶ恕W緑地に2年前に建てられた「人道の港 敦賀ムゼウム」を選択した。展示の主役は、1920年に「ポーランド孤児」を、1940年に「ユダヤ難民」をそれぞれ受け入れた、誇るべき地元の歴史の紹介であり、旧敦賀港駅舎で開かれていた「人道の港 敦賀」展を常設化する為に出来たそうだ。杉原千畝領事代理の「命のビザ」を持って、シベリア鉄道経由敦賀に生き延びた4500人の「ユダヤ難民」の話は、今はかなり有名になったので、ここでは私が初めて知った「ポーランド孤児」の受け入れについて記す事にする。ポーランドの長い歴史を書く余裕はないが、要点は以下のようだ。
 ロシア・ドイツ・オーストリアにより長らく分割統治されていたが、反乱を企てたポーランド愛国者の流刑の地がシベリアだった。第一次世界大戦ロシア革命を契機に、ロシア国内は革命・反革命勢力が争う内戦状態になり、政治犯や難民を含めてシベリアに居たポーランド人は十数万人。人々は飢餓と疫病の生活を送っており、特に親を失った子供達は極めて悲惨な状態に置かれていた。せめて子供達だけでも生かして祖国に帰したいとの願いから、1919年ウラジオストック在住のポーランド人によって、「救済委員会」が組織され、各国に救いを求めた。欧米諸国に悉く拒否され、窮余の一策として委員会会長女史は、翌年来日し外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて援助を懇請した。日本政府の決断は驚くべき即断であり、日本赤十字社・シベリア出兵中の帝国陸軍が一体となって動き、1920年7月から翌年7月迄の一年間で5回にわたり、孤児375人が敦賀経由東京に到着した。更に1922年にも390人が来日した。合計765人に及ぶ孤児達は、病気治療・休養など日赤の手厚い保護を受けた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人達、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は後を絶たなかった。貞明皇后も日赤病院で孤児達を親しく接見された。このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていた孤児達は、急速に元気を取り戻した。そこでいよいよ帰国となる。船のデッキに孤児達が並び、「君が代」「ポーランド国歌」を涙ながらに歌い、両国国旗を千切れんばかりに打ち振り「アリガト」「サヨナラ」を叫んだ。第一次は米国経由で、第二次は日本船で直接祖国ポーランドに送り返された。
 その後の関連情報を検索してみる。1925年ポーランド政府は、シベリア出兵中に同国孤児を救った日本軍将校51名に対し、ポ軍最高の勲章を贈った。1995年兵頭駐ポーランド大使は8名の元孤児を公邸に招待した。皆80歳以上の高齢だったが、ある老婦人は「今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝え出来れば、もう思い残す事はない」と。1996年の夏には、阪神大震災の被災児30名がポーランドに招かれ、3週間各地で歓待を受けたが、帰国時のパーティーには4名の元ポーランド孤児が出席し、涙ながらに薔薇の花を震災児一人々々に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。2002年7月天皇皇后両陛下は5日間ポーランドを公式訪問されたが、同国マスコミが連日取り上げての歓迎ぶりは驚くばかりで、80年前の孤児救済の恩義をポーランド国民は今も忘れていない、と報じられた。
 このポーランド孤児の話はインターネット検索ではかなり出て来たが、小中学校の副読本でも取り上げてしかるべきであると思う。国旗をいつも掲げ国歌をいつも歌い、我等が先人の功績をいつまでも語り続けるべきではないか。「学校の先生が国を滅ぼす」と言う新刊書を読んだが、とんでもない事だ。