自分の国は自分で守る

普天間基地移設問題での最大の論点は、「自分の国は自分で守るべし」という至極当たり前の世界の常識が、全く忘れられている点にあると私は考える。米軍に引き上げてもらうなら、その空白を埋めるべくまず防衛費を増額し、日本軍の強化が成った後「長い間我々の足りない所を補ってくれて有難う。いよいよ力がついたのでこれからは我々が先頭に立って、日本の安全はもちろんアジアの安全保障に責任を持ちます。これからも引き続き世界の平和の維持に一致協力して行きましょう」という宣言から始めるのが筋道というものではないか。何故そうならないかについて、渡部昇一著「日本の歴史(ワック社全8巻)」の第一回配本「戦後混迷の時代に」は、第四章「日本の歴史を奪った占領軍の教育改革」で、終戦直後作られた「教育基本法」を糾弾している。この旧教育基本法を以前私は調べてみたが、当時日本政府は、戦時中の「軍国主義教育の全面見直し」と「平和国家建設」に向けて、教育改革に着手したものの、「愛国心の涵養」とか「伝統の尊重」などは削除を命ぜられ、「個人の尊厳を重んじ」「個性豊かな文化」などが中心に位置づけられ、「国家及び社会の形成者たるべき教育」の視点は全く排除されていた。
 渡部氏は同章で、米国の幼稚園・小学校では必ず毎日、胸に手を当てて以下のように唱えさせていると言う。『 I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands ……』(私はアメリカ合衆国の旗、及びそれが代表するところの共和国に忠誠を誓います。……)。それにも拘らず、日本に対しては全く反対の事を押しつけ、自国を讃え忠誠を誓う行為を排除したのであり、これは米国人の偽善の極みと氏は言い、このような反日教育を受けて育った人の馬鹿げた例を二つ挙げている。一つは2008年東京地裁において、日の丸・君が代強要は違憲違法との判決を下した難波孝一裁判長だ。入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのは不当だとして、都立の高校などの教職員が都教育委員会などを相手に起こした訴訟に対する判決だ。その理由は「一律に式典で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する事などの義務を課する事は、思想・良心の自由に対する制約になるものと解するのが相当である」からだと言う。「この裁判官は戦後米国が行った教育改革、つまり日の丸・君が代軍国主義の象徴だと植えつけられたその思想のままで、法廷に立っている」と渡部氏は慨嘆している(さすがにこの裁判官の判決は、控訴審では否定されている)。 渡部氏が挙げるもう一人の例はNHKクローズアップ現代」の国谷裕子キャスターだ。この国谷さんがテレビで「国旗国歌強要に反対した教師が教育委員会から罰せられるのはおかしい」とものすごい剣幕で言われたそうで、「国谷さんは米国のブラウン大学を卒業しているから、何年もの間米国に留学していたわけだ。生徒にものを教える公務員の立場にある人間が、公の場で国旗国歌に敬意を表さないなどと言う事が、米国であれ他の国であれ、許されない事であるくらい分からない筈がない」と渡部氏は記す。同じような例を思い出したが、田原総一郎の後継ぎをやっている小宮キャスターが以前の番組で、田母神前航空幕僚長の例の投稿論文について非難しつつ、読んでも居ないのに「論文そのものも大変幼稚な内容」とえらそうに叫んでいた。国旗国歌に直接関連は無いが、これも戦後日教組教育の呪縛から解放されていない可哀そうな例である。
 普天間問題混乱の大損害を少しでも取り返すには、これを契機に「国家について、国の安全保障について、最終的には現憲法を失効させた後に改めて憲法を作成する手順について」各政党はそれぞれ案を国民に提示し、時間をかけてじっくりと国民的議論を始めてもらいたいと思う。