この命、義に捧ぐ

門田隆将著・集英社の掲題の新刊は感動のノンフィクションである。主人公・根本博中将の略歴は、明治24年福島県生まれ・陸軍幼年学校/士官学校/大学校卒業・南京/上海/満州に駐在・S19年駐蒙軍司令官・S21年復員・S24年台湾へ密航し金門戦争参画・S27年台湾より帰国・S41年逝去である。軍人としての実績で特筆すべきは、玉音放送による武装解除命令に対する判断であり、これを敢然と拒絶し「陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし」と命じてソ連軍に徹底抗戦し、内蒙古に居た四万の邦人・三十五万の北支那方面軍将兵の内地無事送還を実現した事である。
 根本は国府軍の総帥・蒋介石について「氏が北伐を始めた頃に初めて会ったが、東亜の平和の為に、日本と中国は互いに手をつないで行かなければならないと、理解し合う仲になった」という手記を残しているが、蒋介石との相互信頼は厚く、S18年の米英首脳とのカイロ会談の中での蒋介石の提言によって天皇制の存続が合意された事、及び前述の在留邦人と将兵の帰国への絶大な協力に大変な恩義を感じたそうである。帰国前に根本は蒋介石に会っているが、「東亜の平和の為、そして閣下の為に、私でお役に立つ事があればいつでも馳せ参じます」と言って辞した。復員後2年余りが経過した頃、「蒋介石が率いる国府軍が共産軍の攻勢の前に劣勢に陥り、中華民国総統の職務を副総統に譲り、蒋介石故郷に帰る」との報道に接した根本は、押し寄せる共産軍に自分一人でいいから、日本人としてその恩を返す「何か」をしたい、「我が屍を野に曝さん」と決心したという。そんな時、李勝ウ源と名乗る台湾青年が現れ、根本に訪台を要請したそうだ。
 さて第7代の台湾総督は明石元二郎だが、その息子も軍人で元長と言う。元長が主宰する「東亜修好会」(台湾をはじめとするアジアの青年達を支援する組織)のメンバーの一人が李勝ウ源で、ある日元長を訪ねて来て「共産党の勝利は間違いなく、このままでは中国全土はもちろん台湾さえ危うい、助けて下さい」と懇願したのを受けて、元長が根本を紹介したという。このような次第で根本を渡台させる大プロジェクトが始まったそうだ。S24.6.26、宮崎県延岡の港から釣り船で出、小さな島影で26トンの焼玉船に乗り移り、14日目に台湾基隆の波止場に着いた。
以下要点のみ。8月中旬、根本と蒋介石の感激の再会。福建攻防戦に根本の力を借りたいと蒋介石は要請、担当の湯恩伯将軍は根本を「顧問閣下」と呼ぶ。早速現地厦門を視察。厦門島の防衛は困難と判断、金門島死守に方針変更、その為の戦争準備。第7章「古寧頭(金門島の一地名)の戦い」の小見出しは、終結する(敵の)ジャンク船・金門の熊(こちらの戦車)の出撃・始まった激戦・古寧頭村への(敵の)退却・共産軍兵士の悲惨な運命。10月下旬の数日の激戦で共産軍を鎮圧。
蒋介石は両手で根本の手を握って心からの謝意を表した。金門島は以後60年を経た現在も台湾領であり、台湾海峡も又中華人民共和国の「内海」になっていない。それから2年強での根本の帰国に際して、空港ロビーでの矢継ぎ早の質問やら、悪意を含む報道に見舞われたようだが、蒋介石と湯恩伯が別れの際に根本に贈った花瓶と「送別の辞」は命を捨てて金門戦争に参加した根本に対する二人の思いが見事に表されたものだった。H21.10.25金門島で「古寧頭戦役六十周年記念式典」が開かれた。明石元二郎の孫・明石元紹、根本の右腕として戦役にも参加した吉村是二の長男・吉村勝行と共に、著者も参列を許されたそうだが、馬英九総統は三人の前にわざわざ歩み寄り、それぞれに手を差し出し「台湾へようこそ」と日本語で語りかけたそうである。文字通り「台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」の物語で、久し振りに引きずり込まれるように一気に読んだが、くだらぬお笑い番組を止めて、先人のこの種の業績放映を期待したいものである。