自民党立党時の政綱

吉田首相の「軽武装・対米協調」に反発して1954年に自由党を徐名された岸信介は、11月に鳩山一郎と共に民主党を結成した。’55.2の総選挙で民主党は第一党になったが過半数に至らず、岸は保守合同を主導して’55.11自由民主党を成立させ、初代幹事長になった。その後’57.3に総裁となり、’60.7迄3年4ヶ月の間総理の座にあった。自民党立党時の「党の使命」は以下の通り。
 『世界の情勢を考え、国民の現状を省み、静かに祖国の前途を思うに、真に憂慮に堪えぬものがあり、今こそ強力な政治による国政一新の急務を痛感する。(中略)。国内の現状を見るに、祖国愛と自主独立の精神は失われ、政治は混迷を続け経済は自立になお遠く、民生は不安の域を脱せず、(中略)。ここに至った一半の原因は、敗戦初期の占領政策の過誤にある。その方向が主としてわが国の弱体化に置かれていた為、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当たり、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、(中略)。他面、政党及び政治家の感情的対立抗争、党略と迎合と集団圧力による政治、綱紀紊乱等の諸弊が国家の大計遂行を困難ならしめた事も又反省されねばならぬ。(中略)。国民の信頼と協力の基盤の上に、強力な新党を結成して政局を安定させ、国家百年の大計を周密に画策して、これを果断に実行する以外に途はない。』
 これに続いて下記にある6ヶの政策綱領が掲げられている。周知のように、3,4はその後の高度成長政策によりおおむね達成されたので、高く評価していいと私は考えるが、その他多くは未実現であり、それらを放置して来た事こそが55年後の今、わが国の惨憺たる状況をもたらしている原因である。中央公論新社刊「日本の近代6、戦争・占領・講和」のエピローグで、著者の五百旗頭真氏が述べているのだが、「……吉田の後、改憲再軍備により自立した伝統的国家を再建せんとする路線(鳩山・岸)への移行に、内政・外交の両側面から失敗してしまい……」池田・佐藤による吉田なき吉田路線が続いてしまったのだった。使命感に満ちて戦う岸首相の心情を国民は理解出来ず、旧安保条約の改定のみで岸は退陣せざるを得なかったのだが、今になって当時の全学連闘士が「安保条約の内容など殆ど理解せず反対の為の反対だった」などと回顧しているのを聞くにつけ、その早期退陣は悔やみて余りある。この未実現の各項目が、岸首相によって実現していれば、文字通り対等な日米同盟下で、わが国はアジアの盟主であり続けたに違いない。
 
       政策綱領と現時点評価

1. 国民道義の確立と
教育の改革―――――――――×
2. 政官界の刷新―――――――――――――×
3. 経済自立の達成――――――――――――○
4. 福祉社会の建設――――――――――――△
5. 平和外交の積極的展開(固有領土の返還)―×
6. 独立体制の整備(現行憲法の自主改正) ― ×