昭和20年 春と夏                    

大東亜戦争敗戦から60周年の今年もあと残すばかりとなったが、もう一度当時を思い起こすべく、中央公論新社:日本の近代6−五百旗頭真著「戦争・占領・講和」(2001)の第2章「敗戦の方法」を読み返し、新たに書店で見つけた二冊に目を通してみた。一冊は藤原書店:学術総合誌「環」2005Summer特集「占領期再考」であり、他は光人社:左近允尚敏著「敗戦―1945年 春と夏」(2005)だ。前者に掲載の略年表(1945年前半)を転記すると、2.11ヤルタ協定(スターリン、対日参戦を約束)、3.9〜10第一次東京大空襲、4.1〜6.23米軍沖縄上陸、守備軍全滅、4.12トルーマン米大統領就任、4.13〜15第二次東京大空襲、5.7ドイツ、無条件降伏、5.24〜25第三次東京大空襲、7.16米、原爆実験成功、7.26ポツダム宣言発表、8.6広島に原爆投下、8.8ソ連、対日参戦、8.9長崎に原爆投下、8.14御前会議、ポツダム宣言受諾を決定、8.15玉音放送(終戦詔勅) となる。占領期再考とある如く、殆どの論者の視点は占領政策などであったが、五百旗頭真教授の「僥倖としての日本占領」では、?米は真珠湾の翌年に日本専門家を集めて対日占領プラン作成に着手したが、責任者は太平洋問題の専門家でクラーク大学国際関係論教授のブレイクスリーであり、具体的起草者は来日経験もあった当時コロンビア大学助教授のボートンだった。?プランの争点は天皇制と官僚制であった。知日派のプランは天皇の権限の部分的停止といった微温的な案、官僚制についてもその行政機構を利用する案、であり、上層部は不満であったが、かの外交界長老のグルーの活躍など数少ない日本専門家達が戦ってくれて、日本占領はそれなりに筋の通ったものになった、と言う。?必ずしも成功しなかったが、「ソ連参戦阻止の為の」そして「原爆投下回避の為の」知日派の奔走の事実にある如く、彼らの努力により、非常に配慮に富んだ、寛大な占領プランが作成された、と著者は言う。 ポツダム宣言が出され、東郷外相はほぼ正確にこれを読み取りその受諾を主張した。しかし、阿南・梅津・豊田の三馬鹿軍人が最後迄反対した為、実際の受諾迄は、二度の原爆投下そして痛恨のソ連参戦を経て、二度に亘るいわゆる聖断を経ての長い道のりだったのだが、それでも米軍の上陸による本土決戦とかソ連の進駐によるドイツ並み分割統治の悲惨さを考えれば、大変な僥倖であったし、それがその後の、誰の予想をも超える日本の再浮上をもたらしたのだ、と著者は締めくくっている。
もう一冊の「敗戦・・・・・」もほぼ同じ時期を扱っていて、章題を拾うと、ヤルタの密約・ソ連に和平仲介を打診・中立国における和平工作ソ連の対日参戦・ポツダム宣言・マンハッタンプロジェクト・原爆の投下・原爆をめぐる議論・米軍最後の攻撃・条件付ポツダム宣言の受諾・戦争の終結となっているが、主要参考文献によれば、資料は1962年から2003年までに多分米国で刊行された25冊の書物であり、記述の大半は「マジック要約」の引用なのが特徴だ。開戦の一年前に解読に成功し、これによって得られた日本の外交暗号情報を、米国はマジックと呼んだが、スティムソン陸軍長官の指示で1942年3月から毎日「マジック要約」が作成され、分析官が必要な補足説明を付して政軍のトップクラスに配布されて来たようで、こんな情報格差の下の戦争だった事にあらためて愕然とする。「負けるべくして負けた戦争」を何故始めたかは、現在もなお明確な答えを見出し得ない命題だが、一方、もう少し早く敗北を認められなかったのか、と著者は自問している。そして、残念な事だが原爆投下とソ連の対日参戦の二つがあって初めてポツダム宣言受諾に踏み切れた、というのが著者の結論である。それがなかったら翌1946年には関東平野が戦場と化しただろうと、それは五百旗頭氏の想定と同じである。当時の軍人の馬鹿さ加減はどこから来たのか、やりきれない思いだ。