世界遺産・石見銀山遺跡(島根旅行―3)

石見銀山遺跡は、島根県大田(おおだ)市の西部に位置し、その中心となる大森町山陰本線大田市駅から約11km南西部にある。鉱山の核は「仙の山」(537m)を中心とする、東西約2km、南北約1kmの範囲で、ここに600ヶ所以上の採掘跡がある。鉱床のタイプは二つあるが、いずれも金銀銅を含んだ熱水が上がって来て岩石の間に沈殿した熱水性鉱床で、その形成は数十万年昔の事だ。周防の国大内氏による石見銀山の発見(1309年)当時は、地表に露出した自然銀の採取だけだったと推定されるが、200年後1526年に博多の商人により銀山開発が始まった。1533年大陸から「灰吹法」(注)と言う精錬技術が導入され、産銀量は増大し、石見以外も含めて日本は世界屈指の産銀国となり、ヨーロッパの地図にまでその存在が記載されていた。石見銀を中心とする高品位の日本銀を求めて、日本列島周辺にヨーロッパ人が来るようになり、様々な西洋文化が日本に伝えられるようになった。鉄砲(1543年)やキリスト教(1549年)の伝来がその一例だ。江戸時代に入り石見銀山は直轄地(天領)となり、17世紀初頭、その産銀量はピークを迎え、年間67トンにも達し、それは世界の約3分の1を占めた。当時は20万人が暮らしていたとの記録がある。しかし、盛期は短く、17世紀半ばにさしかかる頃には産銀量は急激に減少し、明治時代には銅が主力の鉱山として稼働したものの、1923(大正12)年閉山した。早い時期に鉱山として衰退したので、石見銀山の地は現在その大部分が木々に覆われ、結果的に貴重な遺跡が多く残された。
以上は見学後に多くの資料を参考にした要約である。マイカー含めて全ての車は「世界遺産センター」にある大駐車場迄で、観光客が訪れる「大森銀山伝統的建造物群保存地区」(大森町町並み)へは乗合バスだ。そこは「仙の山」と「要害山」の間の谷あい約3kmで、その中約2kmの銀山地区はかつての銀生産の中心地であり、600の中の最大級の龍源寺間歩(まぶ―坑道)(写真・茶色のザックは私)の入口は、その地区の最奥にある。そこまで無料ガイドさんについて説明を聞きながら歩く(写真)。途中小学校があったが生徒は12人だそうだ(町民数400)。午後は町並み地区(1km)で初老の男性ガイド、客は私ら二人。ここは当時の政治経済の中心だった所で、武家・商家・社寺仏閣が混在しているのが特徴だったそうだが、今でもそんな雰囲気が十分残っている。昔この大森地区には128の寺があったそうだが、現在は案内図では10寺、5神社とある、それにしても多い。最後は大森代官所跡であり現在は石見銀山資料館になっている。ここでガイドさんと別れ、単独で羅漢寺に立ち寄る。昔銀山で働いて亡くなった人々の供養の為、多くの人々の寄進により1766年に完成した石窟五百羅漢を見る。これで終了としバスで駐車場に戻る。昨年度年間の観光客は80万人だそうだが、ここは近代史上の先人の業績をしのぶ恰好の場所だ。
(注)「灰吹法」を中心とする当時の精錬の実態は以下の通り。まず?鉱石を砕き水の中で比重選鉱する。次に?炉で加熱し溶かし不純物を除いて、銀とそれ以外(銅・鉄)との合金を残す。更に?鉛を加えて、銀鉛合金(貴鉛)とし、その他の金属と分ける。最後は?動物骨を焼いて作った灰の上でこの貴鉛を加熱すると、酸化鉛は灰に染み込み、表面張力が大きい銀は灰の上に残る。