「日中対決」がなぜ必要か                  


 表題は、2009.10 PHPから発行された単行本の書名であり、副題は「中国・建国以来の真実と影」となっている。著者は、東京外大中国語科卒・東大大学院卒・現在国際教養大学理事長/学長の中嶋嶺雄氏であるが、中国人で神戸大卒・現在民間研究機関勤務の石平(セキヘイ)氏がインタビューする形になっている。1949年の中華人民共和国建国前後から始まる。昔から中国では王朝が変わっても郷紳階層(地域のリーダー・先生など道徳・倫理など社会的秩序を維持する人達)のあり方は不変だったが、毛沢東はこれをも一掃した。農民に一度は土地を与えたが直ぐに集団化を行い、1958年に人民公社化を進めたが大失敗で一時失脚した。その後、紅衛兵を利用して1966年には、告発や親殺しが模範とされた狂気の文化大革命が始まり、約10年間続いた。毛沢東の死後は訒小平が実権を握り、1980年代以降は「改革・解放路線」を推進して現在に至っている。
 日中国交回復は1972年だが、これ以降の我国の拙劣な対中対応につき中嶋氏は苦言を呈し、真摯に向き合って議論する「日中対決」が必要と提唱している。国交回復前を思い起こせば、革新陣営は「米帝国主義は日中共同の敵」と叫び続けており、一方自民党は、台湾とは日華平和条約を締結している事もあって、いつも中国に低姿勢で消極的であったのだが、佐藤政権の時「日中国交回復」を掲げるようになる。東大の衛藤瀋吉氏・慶大の石川忠雄氏らを始めとする中国学会の重鎮が集まり、中嶋氏が若手で参加し世話役となり「国際関係懇談会」がつくられ、「中国との国交回復はすべきである。しかし、台湾との外交関係があるので、そこを如何に慎重に進めるかを考えるべき」と答申した。この頃ニクソン大統領の訪中予告宣言があり、1972年2月には実際に訪中が実行される。我国では田中政権となり、負けじとばかり同年9月に田中総理は訪中し論議を尽くす事なく一気に国交回復をしてしまう。一方米国は、9年もかけて台湾関係法など台湾擁護の手を打った後に、中国との国交正常化を行ったのだった。
我国はその後常に「謝罪外交・媚中外交」になって行き、中曽根総理も当時の総書記・胡耀邦支援するつもりで、自身の靖国参拝を中止したようだが、それは何の効果もなく大きな汚点を今に至るまで残した。1978年には「日中平和友好条約」を締結したが、ソ連覇権主義を非難する中国の主張を入れ我国は「覇権条項」を認めてしまった。この為、日ソ関係は一気に冷えこみ北方領土交渉を難しくしてしまった。その他折につけ、我国政治家も外務官僚も「中国のいやがる事はしない・言わない」と言うスタンスを続け、完全に中国に操られるようになってしまった。中嶋氏はその都度、国益をまず念頭に置き主張すべき事は明確にすべしと提言して来たようだが、このままでは、中国が大きな存在になるにつれて日本はその陰に隠れてしまうと警鐘を発する。
まず北朝鮮の問題だが、中国に頼んで説得してもらおうという日本の外交姿勢は根本的に間違っている。中国は最終的には北朝鮮を守るという事情をきちんと掌握して、自らの対処策を考えなくてはならない。次は台湾問題。中国は台湾を吸収合併するかどうかという瀬戸際に来つつあるが、日本は台湾の友人として「台湾は歴史的にも文化的にも中国とは違う」とはっきり言うべきだ。何も言わずに流されていれば、日本の存在感は無くなってしまうと中嶋氏は言う。三点目は「自由」「人権」「民主主義」という旗印を掲げて、ウイグルチベット問題等道義の無い中国外交に正面から対決を挑まなければならないという。そして最後だが、どの党が政権を取っても内政には差は出ない、外交と国家戦略をめぐって政界の地図を描き直す事が必要だ、やはり政界再編が当面の大きな課題だと中嶋氏は締め括る、我が意を得た思いだ。