国家観無き安全保障の脆さ            

   
學士會会報 No.883 (2010.7)に九州大学教授・石田正治氏の「日米安保体制再考」が掲載されている。その結論は「統治体制に対する国民の信頼が無い現在、我国の安全保障は、張り子細工のように脆い」と言う事なのだが、その論旨を以下に要約し、しからば対策は? の私見を述べる。
1. 「安全」は、語義としては「安らかで危なげがない事」だが、国家に当てはめれば、統治体制が十全に機能し、国民が納得出来る生活を送っている状態である。統治体制に対するこのような信頼の感情を国民に抱かせる事が、安全を保障すると言う事の本質的部分だ。外的脅威に対抗し得る備えを持つ事は、大事だが、国民的信頼を創り出す為の一手段に過ぎない。
2. 敗戦の混乱の中で、我国の体制への信頼がどのように築かれたかを振り返ってみる。敗戦の瞬間に於いても、昭和天皇は国民を統合する力を保持していた。マッカーサー天皇を改めて「元首」に据えようとし、その為には、国際的な占領管理機構である極東委員会加盟国の反対を抑えこむべく、軍備放棄を明記した新憲法(平和憲法)を日本政府に切言した。
3. 新憲法の受け入れは已むなしとしても、軍備放棄についての懸念を払拭すべく、天皇は米国に軍事的保護を求めた。米国も東アジアに於けるソ連の勢力拡大を抑止すべく、日本を米国の単独支配下に置こうと画策した。このような政治力学から、平和憲法日米安保体制を影のように伴っていたし、それはむしろ当然の事であったと言える。すなわち、対米依存を本質とする安保条約と平和憲法とは、象徴天皇制のもとで戦後民主主義を支える二つの支柱だ。
4. この二つの支柱に加えて国民の信頼を確固たるものにするには、民生の安定が不可欠だが、軍事負担の軽さは、冷戦の緊張の中でも経済を急速に復活させるのに寄与し、1960年代後半以降の高度成長を可能にした。多くの者が農漁村を離れて都市で会社勤めをするようになり、自民党長期安定政権体制のもとでの経済成長の中で、国民の勤勉さも相まって生活水準は向上し、企業戦士として情熱とエネルギーを仕事に注ぎ込み、彼らは称賛の対象であった。
5. このような終身雇用のサラリーマンにとって、自分が属する企業は国家以上の意味を持ち、帰属意識の対象は国家でなく会社になって行った。あらたな日本は、いかなる国家であるべきかの問題は、人々の関心事ではなくなって行き、まして平和国家としての安全保障のあり方を問う、と言うような議論が世論を沸き立たせる事もなかった。いやむしろ、そのような議論を、政治家も国民も避けて来たと言うべきで、護憲論者も改憲論者も具体的な将来像を示さず、論点は単に平和国家と言う建前を維持するのか放棄するのか、に過ぎなかった。
6. ここへ来て、かつての経済的繁栄は喪われ、企業が人々の帰属意識の対象でなくなっても、なお、我々は自分の生き方と国家の在り方との関係を見失ったままである。日米安保体制によって外的脅威に対する安全は保障されて来たとしても、それと引き換えに、我々は、非軍事的な保障策をも含めた平和国家に相応しい安全保障のあり方を、主体的に模索する力を持てないままである。以上から冒頭の結論が導かれる。
[私の感想] 石田氏の戦後認識はその通りであり、昨今の普天間問題にしても移設先如何に終始してしまい、日米安保条約の存在意義は如何なるものかと言う方向に議論が展開しないのも、国家の在り方を見失っているからである。平和ボケから目覚め日本文明二千年の歴史に思いを致し、世界の中の日本国を、価値観共有の各国の支援を得つつ、先ずは自らの力で守る覚悟を決めたい。